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執筆者の写真Jun Miyake

認識と事実:科学と技術体系への疑問

更新日:2020年11月19日

疑問のはじまり

 自然科学は、宇宙のなかでどこまでも正しいか?

 自然認識の方法は一つか?

 科学はすべての真実を説明するか

 などなど

認識と事実は同じか

 人間の自然認識は、科学によって直接的に提示されるのではなく、それを土台として新たに人間が脳内で組み立てているものと思われる。

 科学はどこまでも細かく調べれば精密な答えは出るが、全体像まで提示してくれるわけではない。細かい部分がわかってくることが科学の発展だと思っていないか。それは蛸壺化にすぎないのではないか

 人間の理解は、ア・プリオリだろうが帰納法だろうが、科学そのものではない。あくまでも「人間の五感のあるいは知的な理解と納得」である。科学は、人間が判断するその手前の確実性を提示する。しかし、人間の判断のポイントにおける理解の正確さや方向を保証することはないと思うがどうだろうか。

 理解とは事物のカテゴリー化、およびそれに続く内部構造の把握のことであろう。内部構造を詳しく解析できるならばその方が理解が深いと言えるかもしれない。内部構造を調べる方法として自然科学が用いられることが多いので、カテゴリー化も自然科学の力で行われたような錯覚を持っていないか。カテゴリー化はどちらかと言うと直感的な帰納であるように思うのだが


自然科学への信仰は産業革命の成功のおかげ。次は?  自然科学万能感は産業革命の進展とともに確固たるものになって行った。産業革命の基本はモノとエネルギーである。モノとエネルギーは地球環境において飽和が始まり、産業革命は限界に突き当たりつつあるが、感度の良い人は1960年代にそれを感じたようだ。絵画・ファッション・音楽について、1969年代は変化の始まりである。それは情報技術の発展に伴った変化が世界に広まったときでもある。

 日本が世界に躍進した1980年代は、モノ作りの最後の栄光の時、重厚長大産業は今や情報産業に主役の地位を譲ったと言える。モノのコスト・廃棄コストが大きくなったことと、人々の思考がモノから情報への移行が始まったこともあり、産業構造が変わらざる得なくなった。現在は移行期ともいえるが、モノの影響は大きく、今だに学問体系もモノを中心にできている。特許もモノでないものには薄情である。

 これから世界が向かうところは、モノでない世界だ。それこそ、アートやサービスなどヒューリスティックな価値が主軸になるだろう。ここまで来ても科学は、物質世界を考えるときには、今も主軸である。しかし、これからも主軸と言えるだろうか。新しい・精神世界はモノではできていない。

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