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  • 執筆者の写真Jun Miyake

科学と工学の方法論:ルネッサンスから400年目の革命

更新日:2020年11月20日

1.現代科学の特性 現代科学の主軸は解析的方法であった。現象を素要素に分解し、素要素の特性を解明できれば素要素が集合した高次の現象も自ずと明らかになると考えられていた。素要素とシステムには自明な関係が有るに違いないという信念によって、疑いを入れず簡明な関係を描くことができていたのである。 かかる科学の枠組みはガリレオ、ニュートン、デカルトの時代に確認されたと筆者は認識している。さらにその源流をたどれば、スコラ哲学において議論され主導的な方法となった「オッカムの剃刀」であろう。一神教であるキリスト教が先か、そもそも西欧的に土着の考え方か、いずれにせよこの世は簡潔かつ合理が行き届く構造をしているに違いない、という信念があったと思量される。 産業革命の進展の中で、要素還元論の論者は自信を深めた。ニュートン力学など幾つかの原理的な理解は、現実の世に適用可能であり、人間では成しえないほどの大きな力を発揮できることが分かったからである。科学の方法論は神聖なものとなった。この科学の方法論は宗教的な信念と一体となり、疑いを入れないものとして世を覆った。科学・宗教複合体が合理を定義し、価値の上と下を定めたのである。 余談だが、江戸時代を通じて、日本において科学の受容が相当急速に進んだのは、日本には強力な宗教的束縛がなく、それなりの合理を具備する西欧科学を拒否する理由もなかったからと思われる。日本の科学が明治時代に始まったと思うなかれ、1800年ごろから科学の理解は急速に進んでいたのである。18世紀後半から19世紀中頃までに多くの科学書が出版されている。解体新書、舎密開宗などは幕末までに医学の教科書になっていた。 「科学」は精緻に作られた故に、ルネサンス以降の歴史の中で、疑いが入ることなく、発展し続けた。現代科学の構造は、しかし、永遠の真理ではない。その精密さもわかっていることのみに適用できるのだ。わかっていないことがどれだけあるかは、人は理解できない。近代科学万能の前提で話を始める事は出来ないからである。「科学」は万能であって研究者は疑問を持つべきではないのだろうか。否、科学は不完全な試みに過ぎないかもしれない。 2.生命論への応用と戸惑い 数々の成功を収めた近代科学であったが、生命現象への応用において、大きな成功と大いなる挫折を迎えることになる。タンパク質、遺伝子の解析、細胞や人体の構造の理解において、科学は切れ味の良い解釈を提供した。NCBIのデータベースを見れば、遺伝子の塩基配列、タンパク質の3次元構造など、良くもこれだけの成果がえられたものと感嘆せざるにはいられない。 しかし、そのデータベースはアイロニカルでもある。何万何十万という粗要素を調べても、細胞・生体システムがどうなっているかは未だに謎なのだ。素要素の再構成によって、1つ上の階層を説明できる機会は多くないのではないかとの疑いが浮び上がって来ざる得ない。 生命はいくつの要素から出来ているのであろうか。細胞の概念が確立してから、細胞を要素として考えるようになった。タンパク質や酵素が見つかると、まさに機械要素のように思われた。高分子、さらに遺伝のメカニズムが明らかになると、遺伝子も取り込み、幹細胞からの分化誘導も取り込んだ、現代の生命の理解が出来上がったのである。とはいえ分子の相互関係や分子から細胞へそして個体への階層が簡明に記述されるに至っていない。 出来る限り簡素に、というオッカムの剃刀・デカルト的な科学思想は、ここで難しい問題に直面している。デカルトは、生命的な問題を排除したがゆえに物理学の成功を実現したのである。これまでの自然科学は機械的な認識と切っても入れない関係にあったのだ。しかし生命現象では、要素は見つかれど、見つかる毎に要素間の相互構造の解釈は複雑化する。解析を続ければ、いずれは簡単に簡素に表現しうるものなのか。 これまでの解析的な方法を用いれば生命現象の理解がまだまだ進むと考える楽観論と、システム的に限界に達したとする悲観論が共存している。本質が現時点で分からないものであるかどうかどうかについては、深い議論が必要であろう。 人間の認識の問題もある。我々の理解は因果律に強く引っ張られているからだ。比較的短い距離(思考のステップ)で相互に結びつけられる因果律が好まれる。長い考察の果にようやく到達できる関係は、上質な理解とみなされない感が強い。 生命現象の構造を考えてみよう。素要素を測る事は本質かどうか。誰が素要素と全体の関係を保障するか。数値にならなければ論文にならないが、だからといって数値が本質か?要素分解できるのか。数値データを組み立てて「全体」を表現する方程式は実現するのか、実存するのか。誰にも答えられないままにデータだけが先行している。 観念論も要素たる「分子」の振る舞いの再現は比較的スムーズに進展した。リービッヒ以来100年はめざましいものだった。しかし次元をひとつあげようとした20世紀後半から、難しさは一段と高まった。 産業革命から200年、科学者はデカルトの僕であった。否、中世以来オッカム修道院のウイリアム修道士の僕と言うべきか。ものは単純にあるのが本性であるとの定式が、宇宙を支配する根本法則としてこれまでの科学において共有されていた可能性がある。我々は未だにそこに生命や心の働きを投影していないだろうか。 3.構成論の出現 まだまだ要素において解明すべきところは多々あるものの、方法論として還元論には限界感がある。生命に対する知的アプローチとしては拡大基調とは言い得ない。 一方、作ってみて考えようとする構成論は時代の波にも乗っている。あたかもロボット研究の勃興の時である。精神というさらに上段のシステムに探求が進み出したタイミングである。 方法論は理解しやすい。同じものを別の方法論で作ることができれば、パスウェイはともかく完全な理解が実現したのだとする。工学では実用といいう究極の目標の達成である。一挙両得だ。 フランケンシュタインの話に代表される、古来からの生体組織を用いたロボットものは枚挙に暇がないので触れないが、人間のモノ理解の重要な形である。 構成論は、全体の理解が進むことによって、階層的理解が進むという特徴を持つ。一目で全体が見えない難点がある。比較的新しい概念であり、ギリシャにもあったかもしれないが、馴染みが薄い。全体像と要素が相互に関係するので、簡単に取り付きにくいのも欠点だ。 今後構成論には重要な仕事がある。エントロピー問題である。シュレディンガーが喝破した生命のエントロピー減少プロセスを如何に説明するかであるが、要素還元論的には非平衡状態という複雑なシステムを考えなければならなかった。間違っていないどころか確かな本質であるが、それでは生命は作れるか、というと未だに実現していない。生命に近い機能を何とか実現できないか、という視点でたどり着いたのがインターフェースではないか。 4.バイオインターフェースは突破口となるか 細胞膜、生体膜、界面などのインターフェイスは、次元が限定された空間であり、要素の数も限られるので生じていることを比較的把握しやすい。とは言え、界面には魔物が棲むとデバイが述べた由であるが、この場の特性を一言で言い表しにくのが難点である。 生体膜が無定向なゆらぎを制御し、エネルギーを揃える仕組みであるのは、大沢・柳田などの研究で提言された。実際のエネルギー変換の分子的な仕組みも、細胞膜、光合成膜、ミトコンドリア膜などの研究で明らかになってきたが、ゆらぎの解明と応用までは至っていない。 ここからどうやって次のステージへ至るか。じわじわと囲むと解が見えるか。それは簡単ではなかろう。前世紀中頃から生命研究において主要な方法論であった構造主義ー形が機能を物語ると考える方法論ーだけでは完全な解には至らなかったと言わざる得ない。 生命に関する工学は、何を目指すのか。これが問題だ。生命の再構成であろうか。それならば、人間が人工的に行わねばならない理由は何か。 やはり、工学的な目標が必要であろう。作ってこそ理解である。生体膜の周辺にはエネルギー変換だけでなく、合成・修飾など多くの機能が集まっている。このうちどの様な機能を目標とするか、議論が待たれる。 5.人工知能は役割を担うか いずれのアプローチにおいても、あまりにも多い要素をどの様に束ねるか、人間の認識だけを頼りに考えることはすでに無理と断言せざるえない。人工知能が人間の造作物か、宇宙に繋がる自然認識であるかは現時点で判明していない。しかし、限定された人間の認識能力を頼りにシステムを考えるのには無理があること、上記に記したとおりである。 現有の人工知能である必要はないとしても、何らかの知的な補助は有用であろう。ギリシャの幾何学に補助線が有効であったように、補助知能の存在を有用に活用することが求められてはいないか。 6.結語 バイオインターフェースをアプローチとして、要素還元論の不備を克服しつつ構成論的に生命の理解と応用に至る道筋ができつつあるのであろう。最後に考えるべきは、求めずともよい機能創生を目標にしないことである。生命にできることは生命に行わせることを意識すべきではないか。 科学技術であれば尊いと考える時代は終わった。生命現象を何でも人工的に再現する必要があるだろうか。細菌を用いた発酵や農業にできることを試験管の中や工場で行う必要はない。その判断も知的なものであろう。力押しでは何も得られない。何処かの方向へ進むかは、自然に聞くしかない。その聞き役として自然科学の役割があるのではないか。 本質的な知が問われる時代になりつつあると思量される。


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出典:生物工学会誌 第94巻第12号、 三宅 淳「バイオインターフェース研究は構成論と還元論を越えて新しい科学概念を拓くか」

(https://www.sbj.or.jp/wp-content/uploads/file/sbj/9412/9412_tokushu_8.pdf)

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